『アセンション館通信』――真我として在ること

━━━━☆☆☆☆━━━━━━━━━━━━━━ by paritosho ━
  ☆☆   ☆☆ 
 ☆☆     ☆☆『アセンション館通信』2011/9/25(第390号)
☆☆   ☆   ☆☆
☆☆      ☆★ 【気刊】――「私は在る」に導かれ♪――

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 ☆☆   ☆☆          http://now.ohah.net/pari/
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◇◇ このメルマガの趣旨 ◇◇

このメルマガはアセンション館主人 pari と称するある「個人」に
自己同化した観照者が覗き見た風景の報告です。(ちゃって(*^_^*))

マインドを超えるにはマインドを使ってマインドを知るのが最善の
準備、という言葉を信じた現象世界に興味を失うための努力です。

内容は人畜無害、でも読む人は相当変わってますね。現在 888名

                                                                                                                      • -

◇◇ もくじ ◇◇

1.真我として在ること

2.写経ニサルガダッタ:
      【62 至高なるもののなかに観照者は現れる】1回目

3.編集後記:いったい……この身体の……もち時間で……

                                                                                                                      • -

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■ 1.真我として在ること
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今日は……素晴らしい天気……。

秋日和……ですね。

窓を開けると……まだまだ大きく……川の音が聞こえます。

じつは……眼の前の光景が……これまでとかなり変わりました。

先日……台風15号が日本列島を縦断した日……じつは我が家でも
……ちょっとした異変が……起こりました。

いえ……本当の深刻な被害に遭われた方々から比べると……問題に
もならないようなことですが。

一昨昨日(9月21日)の夕方五時過ぎ……ふと気がついたら……
眼の前の山の稜線が……すべて見えていたのです。

いつもあった……花桃の木が……視界から消えていました。

いまは……直接……眼の前の山に対峙しています。(*^_^*)

その翌日になって……倒れた花桃の木を……畦畔(けいはん)の下
に移植できるかとも考えました……。

が……お隣のご主人に……チェーンソーで手伝っていただきながら
……うん……途中から……それは諦めました。

ちょっと……それには……大きくなりすぎていました。

そして……久しぶりに……すっかり開けた視界は……それはそれで
……とてもすっきりしていて……。

もう……このままで……いいと思いました。

あの花桃の木は……もとより自分で切ることはなかったでしょうが
……台風が片づけてくれたのなら……それはそれで……いい。

これで……正面に大きく視界を遮っていた木は……なくなりました。

ガランと……開けた感じです。

それもまた……とってもいいです。

(*^_^*)

さて、またまた一週間が過ぎて、楽しい“アセンション噺”ならぬ
“「私は在る」噺”にお付き合いいただく時間がまいりました。

アセンション館通信』配達人の pari です。(^^)/

みなさま固有の「私は在る」の中で、いかがお過ごしでしょうか?

変化するもののなかには……何の実体も……ないわけですものね。

われわれの務めは……変化するものに……注意をはらうことじゃ…
…ありませんし。(^_-)

われわれの務めは……ただ……ありのままの自分で在ること。

ただ……真我として在れば……いいのだと思います。(-_-)

(@_@)

え……pariさん……何で急にそんなに偉くなっちゃったの? (?_?)

“真我として在れば……いい”……なんて……。

まるで……。(@_@)

まあまあ……そう固いこと言わないで。(*^_^*)

いろいろ……マハルシに教わったんですよ。

そしたら……真我として在る……ということは……そんなに特別の
ことじゃない……みたいなんです。

                                                                                                                      • -

 質問者 人はどのようにして真我を知るのでしょうか?
 
 マハルシ
 真我を知ることは、真我として在ることである。
 あなたは真我を知らないと言えるだろうか?
 鏡がなければ目を直接見ることはできない。
 だが、それでも目が存在することを否定するだろうか?
 同じように、真我は対象化されないが、あなたは真我に気づいて
 いる。
 それとも対象化されていないために真我の存在を否定するだろう
 か?
 あなたが「真我を知ることができない」と言うとき、それは相対
 的知識の点から見た不在を意味している。
 なぜなら、相対的知識に慣れすぎたため、自分自身をそれと同一
 視するからである。
 真我を対象化することはできない。
 そのため、そのような偽りの同一視が、明白な真我を知ることを
 困難にしてしまう。
 そうしておいてから「どのようにして真我を知るのか?」とあな
 たは尋ねるのである。
                   『あるがままに』(p123)
                 http://tinyurl.com/2aar6zj

                                                                                                                      • -

> 真我を知ることは、真我として在ることである。

この……「真我を知ることは、真我として在ることである」という
言葉……。

意味がわかるような……わからないような……と思いますよね。

でも……次の論理展開を聴くと……ちょっと面白いんですよ。

> あなたは真我を知らないと言えるだろうか?

えーと……。^^;;

> 鏡がなければ目を直接見ることはできない。

はい。

> だが、それでも目が存在することを否定するだろうか?

なるほど……。

赤ん坊は……そんなこと思いもしないだろうけど……。

でも大人だったら……見えているという事実がある以上……見てい
る目は……あると思うでしょうね。

> 同じように、真我は対象化されないが、あなたは真我に気づいて
> いる。

あ……そうか……。(@_@)

気づいているんだから……気づいている者は……いるわけだ。

気づいている者が……いることを……否定できない……。

真我が存在することを……否定できない……ということだ。

> それとも対象化されていないために真我の存在を否定するだろう
> か?

「これが真我だ」と……客観的対象物として……真我を特定できな
いからと言って……「気づいている者」(真我)の存在を……否定
するだろうか?

いやー……それは……できません。(-_-)

> あなたが「真我を知ることができない」と言うとき、それは相対
> 的知識の点から見た不在を意味している。

はい……わかります。

「真我を知ることができない」という言葉の意味は……真我を……
知覚の対象物としては……特定できないという意味です。

> なぜなら、相対的知識に慣れすぎたため、自分自身をそれと同一
> 視するからである。

そうかぁ……。

“知る”ということを……“知覚対象として把握する”ということ
だと……決めこんでしまったんだ。

だから……自分自身を知覚対象にできないと……それを……自分を
知らないことと……混同してしまったわけか……。

なるほどなぁ……。

> 真我を対象化することはできない。

それは……わかります。

だって……“知る者”である自分自身を……他のすべての対象物と
同じような……“知る”対象には……できませんものね。

> そのため、そのような偽りの同一視が、明白な真我を知ることを
> 困難にしてしまう。

“対象物を知る”と……“真我が在るのを知る”では……「知る」
という言葉は同じでも……意味の包含が違うんですね。

“対象物を知る”は……知覚対象としての……存在を確認する意味。

それに対して……“真我が在るのを知る”は……“知る者”の存在
を……否定できない……という意味なんだ。

> そうしておいてから「どのようにして真我を知るのか?」とあな
> たは尋ねるのである。

そういうことだったのか……。(-_-)

じゃ……マハルシに……いったんそのことを教わったら……もう、
われわれは……「真我を知らない」とは……言えないわけだ。

だって……“知る”という事実がある以上……“知る者”の存在を
……否定することはできないから。

ただ……通常は……“知る者”を……この身体だと……思っている
ということだ。

でも……実際は……わたしとは別個に……身体が……独自にそうい
うコトを……わたしに言ったわけじゃない。

わたしの視野に……身体があり……わたしの意識に……そのような
想念が……浮かんだだけ。

“知る者”は……この身体では……ありえない。

“知る者”は……わたし……だ……。(-_-)

> あなたは真我を知らないと言えるだろうか?

いえ……言えません。

> 真我を知ることは、真我として在ることである。

あ。(@_@)

……。(-_-;)

われわれは……真我を……知っている。

少なくとも……真我が在ることを……知っている。

真我は……「知る者」として……否定し難く……存在している。

誰が……「知る者」の……存在を……否定できるだろう……。

だから……「知る者」は……真我は……間違いなく……存在する。

われわれは……現象世界の……どんな知覚の対象物とも……想像の
対象物とも異なる……真我が在ることを……知っている。

> 真我を知ることは、真我として在ることである。

「真我を知る」とは……そのような「真我として在る」こと……。

(-_-;)

そうか……。

そういうことだったのか……。

あの……「真我として在ること」について……もう少し……詳しく
……教えていただいても……いいでしょうか。

                                                                                                                      • -

 質問者 あなたは在ることについて語っています。何として在る
     ことでしょうか?
 
 マハルシ
 あなたの務めはただ在ることであり、あれやこれとして在ること
 ではない。
 「私は私であるものである」(I AM THAT I AM)という言葉がす
 べての真理の要諦である。
 その方法は、「静かに在ること」に尽きる。
 では静寂とは何を意味するのだろうか?
 それはあなた自身を打ち壊すことを意味する。
 なぜならすべての名前と形が苦しみの原因だからだ。
 「私はこれである」という観念を放棄しなさい。
 真我を実現するために必要なのは、静かに在ることだけである。
 それ以上簡単なことがあるだろうか?
 それゆえ、アートマ・ヴィディヤー(真我の知識)の達成は最も
 容易なことなのである。
 
 唯一、自己の真の本性だけが、調べられ、知られる価値のあるも
 のである。
 それを注意の的として射止め、ハートの中で強烈にそれを知るべ
 きである。
 この自己の本性の知識は、苛立ち苦しむ心の活動から解放された、
 明晰で平静な意識にのみ明らかにされるだろう。
 ハートのなかで絶えず輝きつづける意識こそが無形の真我であり、
 存在や非存在である何かなどと考えることなく、ただ静かに在る
 ことによって知られるもの、ただそれだけが完全な実在であると
 知りなさい。
 
                 『あるがままに』(p123-124)

                                                                                                                      • -

(-||-)

> あなたの務めはただ在ることであり、あれやこれとして在ること
> ではない。

ああ……。

それが……「真我として在る」ということ……言葉を換えると……
「真我を知る」ということ……だったのか……。

> あなたの務めはただ在ることであり、あれやこれとして在ること
> ではない。

「あれやこれとして在ること」が……夢に翻弄されること……。

「ただ在ること」が……「真我として在る」ということ……。

「真我を知る」ということ……。

そういうことだったのか……。

> 「私は私であるものである」(I AM THAT I AM)という言葉がす
> べての真理の要諦である。

はい。

> その方法は、「静かに在ること」に尽きる。

(@_@)

「静かに在ること」に尽きる……。

> では静寂とは何を意味するのだろうか?

何を意味するのでしょう? (?_?)O

> それはあなた自身を打ち壊すことを意味する。

ガーン?! (*_*) ⌒★?

おお……。

> なぜならすべての名前と形が苦しみの原因だからだ。

そうか……。(;_;)

> 「私はこれである」という観念を放棄しなさい。

(-||-)

> 真我を実現するために必要なのは、静かに在ることだけである。

……。

「真我を実現するために必要なのは、静かに在ることだけである」

(-_-)

> それ以上簡単なことがあるだろうか?

う……。

> それゆえ、アートマ・ヴィディヤー(真我の知識)の達成は最も
> 容易なことなのである。

はい。

> 唯一、自己の真の本性だけが、調べられ、知られる価値のあるも
> のである。

(-_-)

> それを注意の的として射止め、ハートの中で強烈にそれを知るべ
> きである。

わかりました。

> この自己の本性の知識は、苛立ち苦しむ心の活動から解放された、
> 明晰で平静な意識にのみ明らかにされるだろう。

はい。

> ハートのなかで絶えず輝きつづける意識こそが無形の真我であり、
> 存在や非存在である何かなどと考えることなく、ただ静かに在る
> ことによって知られるもの、ただそれだけが完全な実在であると
> 知りなさい。

(-||-)

わかりました……。

……。(-_-)

ありがとうございました。<(_ _)>

(-||-)

今日はこんなところで。

……。

m(_ _)m


━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
■ 2.写経ニサルガダッタ:
      【62 至高なるもののなかに観照者は現れる】1回目
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

今回の質問者は……あまり共感的なスタンスではないようです。

でも……こういう方が質問してくださると……そういう質問者でな
ければ引き出せない……言葉を引き出してくれます。

> 見る者が彼自身を見る者として意識するとき、見る者と見られる
> ものの統合が起こる。

「見る者が彼自身を見る者として意識するとき」……こういうとこ
ろに……希望があるのでしょうか。

> 愛情のともなった気づきは、実在に焦点をもたらす決定的な要因
> なのだ。

はじめて聞いた……音色のような……。

では【35 内なる真我がもっとも偉大なグルだ】の4回目です。

(いつものことながら、無断引用というよりは、無料宣伝と理解さ
 れることを願っています。(-||-) )

最初に通しで写経するので、それを読んでいただければいいです。

                                                                                                                      • -

 質問者 四十年ほど前に、J・クリシュナムルティは「存在する
     のは生命だけで、個人や人格といった話は、実際に何の
     論理的根拠もない」と言いました。彼は生命を描写しよ
     うとは試みず、単に、「生命は描写できないし、する必
     要もないが、もし体験するための障害が取り除かれるな
     らば、それは完全に体験することができる」と言いまし
     た。主要な妨げは、時間に対する私たちの概念とそれへ
     の耽溺のなかに、そして過去の光のなかでの未来への期
     待という、私たちの習慣のなかにあるのです。過去の総
     計が「私は在った」になり、未来への期待が「私は在る
     だろう」となり、人生は「私で在ったもの」から、「私
     は在るだろう」となり、人生は「私で在ったもの」から、
     「私は在るだろうもの」へと超えていくための絶え間な
     い努力なのです。現時点の「今」は見落とされています。
     マハラジは「私は在る」に関して語りますが、それは
     「私は在った」や「私は在るだろう」のようにひとつの
     幻想なのでしょうか、それとも何らかの実在性をもって
     いるのでしょうか? そして、もし「私は在る」もまた
     幻想であるのなら、どのようにして、人はそれから自由
     になるというのでしょうか? 私は「私は在る」から自
     由だ、という観念自体がひとつの不条理なのです。時間
     とともに変化し、新たな期待をつくり出す記憶としての
     「私は在った」や「私は在るだろう」と区別するなかで、
     「私は在る」には何か真実の、何か永遠の質があるので
     しょうか?
 
 マハラジ
 現在の「私は在る」は、「私は在った」や「私は在るだろう」と
 同じように偽りだ。
 それは単にマインドのなかの観念、記憶によって残された印象に
 すぎず、それがつくり出す分離したアイデンティティも偽物なの
 だ。
 この偽物の中心に身をゆだねるという習慣が取り除かれなければ
 ならない。
 「私は見る」、「私は聞く」、「私は考える」といった観念は意
 識界から消え去らなければならない。
 偽物が去り、残ったものが真実なのだ。
 
 質問者 この自己を除去するという大げさな話は何なのでしょう
     か? どうやって自己がそれ自身を除去できるというの
     でしょう? どんな類の形而上学的アクロバットが、曲
     芸師を消し去るというのでしょう? 最後に彼は、消え
     たことをひどく誇らしげにしながらふたたび現れてくる
     ことでしょう。
 
 マハラジ
 「私は在る」を殺すために、それを追いまわす必要はない。
 それはできないことだ。
 あなたに必要なことは、実在への真剣な熱望だけだ。
 私たちはそれをアートマ・バクティ、至高なるものへの愛、ある
 いはモクシャ―サンカルパ、偽りから自由になることへの決意と
 呼ぶ。
 愛、そして愛に感化された意志なしには何ひとつ為(な)されな
 い。
 実在についてただ話すばかりで、それについて何もしないことは
 自滅的なことだ。
 「私は在る」と言う個人と、その「私は在る」を観察する者との
 関係には、愛がなければならない。
 内なる「高次の」自己である観察者(ヴィヤクタ)が、「低次の」
 自己である観察される者(ヴィヤクティ)を見下し、非難するか
 ぎり、状況は絶望的だ。
 観察者が個人を彼自身の投影として受け入れ、そして、いわば自
 我を真我のなかに取り入れると、「私」や「これ」といった二元
 性は消え去り、内面と外面の同一性のなかで、至高の実在はそれ
 自体を顕現するのだ。
 
 見る者が彼自身を見る者として意識するとき、見る者と見られる
 ものの統合が起こる。
 彼は、ただ単に見られるものに興味をもつだけではなく――どち
 らにしてもそれは彼なのだが――興味をもたれることにもまた興
 味をもち、注意にも注意を払い、気づいていることにも気づくよ
 うになる。
 愛情のともなった気づきは、実在に焦点をもたらす決定的な要因
 なのだ。
 
                   『私は在る』(p310-311)
                  http://tinyurl.com/s747u

                                                                                                                      • -

(-||-)

> 質問者 四十年ほど前に、J・クリシュナムルティは「存在する
>     のは生命だけで、個人や人格といった話は、実際に何の
>     論理的根拠もない」と言いました。彼は生命を描写しよ
>     うとは試みず、単に、「生命は描写できないし、する必
>     要もないが、もし体験するための障害が取り除かれるな
>     らば、それは完全に体験することができる」と言いまし
>     た。主要な妨げは、時間に対する私たちの概念とそれへ
>     の耽溺のなかに、そして過去の光のなかでの未来への期
>     待という、私たちの習慣のなかにあるのです。過去の総
>     計が「私は在った」になり、未来への期待が「私は在る
>     だろう」となり、人生は「私で在ったもの」から、「私
>     は在るだろう」となり、人生は「私で在ったもの」から、
>     「私は在るだろうもの」へと超えていくための絶え間な
>     い努力なのです。現時点の「今」は見落とされています。
>     マハラジは「私は在る」に関して語りますが、それは
>     「私は在った」や「私は在るだろう」のようにひとつの
>     幻想なのでしょうか、それとも何らかの実在性をもって
>     いるのでしょうか? そして、もし「私は在る」もまた
>     幻想であるのなら、どのようにして、人はそれから自由
>     になるというのでしょうか? 私は「私は在る」から自
>     由だ、という観念自体がひとつの不条理なのです。時間
>     とともに変化し、新たな期待をつくり出す記憶としての
>     「私は在った」や「私は在るだろう」と区別するなかで、
>     「私は在る」には何か真実の、何か永遠の質があるので
>     しょうか?

うーむ。

ときどき……こういう質問の仕方をする方がいますよね。

> マハラジ
> 現在の「私は在る」は、「私は在った」や「私は在るだろう」と
> 同じように偽りだ。

(@_@)

そうか……あらゆる観念が……偽りだ……という意味かも。

> それは単にマインドのなかの観念、記憶によって残された印象に
> すぎず、それがつくり出す分離したアイデンティティも偽物なの
> だ。

なるほど。

それ自体が架空のものである……偽りの観念があり……その観念が
創造する……分離も……偽り……ということか。

> この偽物の中心に身をゆだねるという習慣が取り除かれなければ
> ならない。

はい。

> 「私は見る」、「私は聞く」、「私は考える」といった観念は意
> 識界から消え去らなければならない。

そうかぁ……。(*-_-*)

> 偽物が去り、残ったものが真実なのだ。

マインドのざわめきが過ぎ去ったとき……そこに残った透明な静け
さが真実……というような意味かな。

> 質問者 この自己を除去するという大げさな話は何なのでしょう
>     か? どうやって自己がそれ自身を除去できるというの
>     でしょう? どんな類の形而上学的アクロバットが、曲
>     芸師を消し去るというのでしょう? 最後に彼は、消え
>     たことをひどく誇らしげにしながらふたたび現れてくる
>     ことでしょう。

なんか……けたたましい感じ……。

> マハラジ
> 「私は在る」を殺すために、それを追いまわす必要はない。

「私は在る」を殺すことは……マインドの仕事ではない……という
ような意味かな……。

> それはできないことだ。

マインドの土台を……マインドが壊すことはできない。

自分が座っている座布団を……自分で持ち上げることが……できな
いように……。

> あなたに必要なことは、実在への真剣な熱望だけだ。

(*-_-*)

> 私たちはそれをアートマ・バクティ、至高なるものへの愛、ある
> いはモクシャ―サンカルパ、偽りから自由になることへの決意と
> 呼ぶ。

はい。

> 愛、そして愛に感化された意志なしには何ひとつ為(な)されな
> い。

「愛に感化された意志なしには」……。

わかりました。

> 実在についてただ話すばかりで、それについて何もしないことは
> 自滅的なことだ。

(*-_-*)

> 「私は在る」と言う個人と、その「私は在る」を観察する者との
> 関係には、愛がなければならない。

(@_@)

個人と……観察者との関係には……愛がなければならない。

> 内なる「高次の」自己である観察者(ヴィヤクタ)が、「低次の」
> 自己である観察される者(ヴィヤクティ)を見下し、非難するか
> ぎり、状況は絶望的だ。

そうなんだ……。(-_-;)

> 観察者が個人を彼自身の投影として受け入れ、そして、いわば自
> 我を真我のなかに取り入れると、「私」や「これ」といった二元
> 性は消え去り、内面と外面の同一性のなかで、至高の実在はそれ
> 自体を顕現するのだ。

「自我を真我のなかに取り入れると」……「二元性は消え去り」…
…「至高の実在はそれ自体を顕現する」……。

……。(-_-)

> 見る者が彼自身を見る者として意識するとき、見る者と見られる
> ものの統合が起こる。

「見る者が彼自身を見る者として意識するとき」……「見る者と見
られるものの統合が起こる」……。

ふーん。

> 彼は、ただ単に見られるものに興味をもつだけではなく――どち
> らにしてもそれは彼なのだが――興味をもたれることにもまた興
> 味をもち、注意にも注意を払い、気づいていることにも気づくよ
> うになる。

ふーん。

まだ……理解の範囲外の……風景……かな。

> 愛情のともなった気づきは、実在に焦点をもたらす決定的な要因
> なのだ。

「愛情のともなった気づき」は……「実在に焦点をもたらす決定的
 な要因」……。

“偽りの分離”を熔かす……溶鉱炉……のようなものなのかも。

……(-_-)

……。

ありがとうございました……。<(_ _)>

(-||-)

今日の写経は、ここまでです。

m(_ _)m


      …………○…………○…………○…………


『私は在る』の「目次」をここ↓に置いておきます。
http://now.ohah.net/pari/books/I_AM_THAT-index.html

もしこの「目次」の中から興味を惹かれたタイトルをリクエストし
てくださる方があれば、その箇所を優先して“写経”いたします。

ときどき「ニサルガ辞書」で遊んでみてください。ボディブローが
効くかも。
http://now.ohah.net/pari/dic/

おこがましくも『アセ通』既刊号はすべてここに置いてあります。
http://now.ohah.net/pari/mm/


      …………○…………○…………○…………


▼『アセ通』への「私は在る」関連ご意見投稿フォーム:
http://www.formzu.net/fgen.ex?ID=P48750702
というのを作らせていただきました。(^^;)

「私は在る」に関するご意見・ご感想・シェアリング、または単な
るメールなど、ご自由にお書きいただければと思います。


      …………○…………○…………○…………


『アセ通』への「ご投稿・情報提供」を歓迎いたします。

▼『アセンション館通信』への情報ご投稿フォーム
http://www.formzu.net/fgen.ex?ID=P87119518


      …………○…………○…………○…………


━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
■ 3.編集後記:いったい……この身体の……もち時間で……
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

耳に入りはじめると……ラマナ・マハルシの言葉は……このうえも
なく……単純ですね。

明晰で……明快で……論理的で……。

どうしてこれまで……これほど論理的な言葉が……耳に入ってこな
かったんだろう……と思われてきます。

しかし……入らないときは……入らないわけですよね。

それは……聴きたい言葉と……まったく違うわけですから。(-_-)

本当に……ずいぶん……遠回りしてきた……ようでもあります。

いったい……この身体の……もち時間で……間にあうのかどうか。

あ……でも……そういうことは……真我ではない……単なるエゴの
言葉に……すぎなかったんですね。

今日は……まだまだ……明るいうちに……終えました。<(_ _)>


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■ 【作者】 『アセンション資料館』主人 pari
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